江戸堺町の大茶屋和泉屋勘十郎の次男であるが、実は二代目團十郎の子とも言われていた。
3歳の時、初代松本幸四郎の養子になり、9歳の時松本七蔵と名のって初舞台。
24歳までは女形として舞台に立っていたが、享保の末から立役に転じ、享保20年(1735)11月、二代目が海老蔵、升五郎が三代目團十郎を襲名した興行で、七蔵も二代目松本幸四郎を襲名(25歳)。
宝暦4年(1754)11月、12年間空白だった團十郎の名跡を切望し、海老蔵(二代目團十郎)の養子となり、四代目團十郎を襲名(44歳)。
明和7年(1770)実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を襲名させ、自分はいったん旧名の幸四郎に戻る(60歳)。
安永5年(1776)、市村座公演の千龝楽、にわかに剃髪し引退。随念と名乗り深川木場の自宅に引きこもり、侠客や俳諧仲間と交遊。皆から親しみを込めて「木場の親玉」と呼ばれた(66歳)。
五代目團十郎、四代目幸四郎、初代中村仲蔵らの門弟を集め「修行講」と呼ぶ演技の研究会を開いた。
安永7年(1778)2月25日没(68歳)。
四代目は神経質で喧嘩早い感情家であったらしい。体つきは長身で手足が長く、顔は面長でふくらみに欠けた。二重の瞼で三角の険しい目つきは、実悪<じつあく>の役者にふさわしい。このような身体的な特徴を備えていた四代目は、初代、二代目によって作り上げられた「市川團十郎」のイメージとは明らかに異質である。明快で楽天的な荒事の性格には不向きだった。しかし、彼は自分の芸風に適した景清<かげきよ>のような役に活路を見出して精進し、市川團十郎の名をはずかしめない名優になっただけでなく、息子の五代目へと「市川水の流れ」の継承を果たした。