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七代 市川團十郎
波瀾に富んだ生涯(1791〜1859)

 五代目の孫にあたる。

 寛政6年(1794)8月、新之助と名のって初舞台。

 寛政8年(1796)11月河原崎座の顔見世に、わずか6歳で初めての『暫』を演じる。

 寛政11年(1799)5月に、六代目が急逝したため、翌12年(1800)11月、市村座の顔見世でにわかに七代目團十郎を襲名することになった(10歳)。

 文化3年(1806)、祖父の五代目が没し、青年團十郎は激しい劇界の荒波に投げ出されることとなる(16歳)。

 文化・文政期には、並み居る名優に囲まれて、七代目も芸を磨き芸域を広げていった。

 四代目鶴屋南北<つるやなんぼく>の狂言の中で、強烈な個性を発揮。『東海道四谷怪談<とうかいどうよつやかいだん>』の民谷伊右衛門<たみやいえもん>に代表される、「色悪<いろあく>」という役どころを確立。

 天保3年(1832)3月、市村座で息子の海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自分は五代目海老蔵になる(42歳)。

 同時に歌舞伎十八番を制定。(『歌舞妓狂言組十八番』という摺物を出版した)。

 天保11年(1840)3月、初代團十郎の百九十年記念興行として『勧進帳』を初演。(松羽目物の始まり)。

 天保13年(1842)4月6日、奢侈<しゃし>を禁じる天保の改革により、七代目は南町奉行所に召喚され、手鎖<てぐさり>のうえ家主の預かりになる。さらに6月22日には江戸十里四方追放の刑に処せられる。

 江戸を追放された七代目は、成田屋七左衛門と改名し、6月25日江戸を発ち成田山新勝寺延命院に寓居する。翌年2月には富士根方(静岡県)の眼医伊達本益<だてほんえき>を頼り、1、2ヶ月滞在。その後大坂へ上る。以後は大坂に住み、京、大津、桑名などの芝居にも出る。その際の名は、市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田屋七左衛門などを使った。

 嘉永2年(1849)12月26日の特赦により、ようやく追放赦免の沙汰が出た。翌3年正月16日に江戸にすぐ帰るようにという書状が届き、慌ただしく出発。2月29日江戸に着く。しかし、気ままな暮らしが気に入っていたのか、その後も何度か旅興行に出る。

 二人の妻と三人の愛妾を持ち、七男五女の子福者だったが、複雑な状態であったため家庭内の揉め事も多かった。

 嘉永7年(1854)8月、大坂・京都を中心とした旅興行の途中、江戸から呼び寄せた八代目の自殺という不幸に見舞われる。

 安政5年(1858)5月、6年ぶりに江戸へ戻り、市村座に出演。

 安政6年(1859)中村座で『根元草摺引』の曾我五郎を演じたのを最後に、3月23日没(69歳)。

テキスト:服部幸雄著『市川團十郎代々』(講談社刊)より
錦絵 :早稲田大学演劇博物館蔵 作品番号101-5428